続・地震
しばらく間が空いてしまいましたが、引き続き地震関連で記事を書こうかと思います。
今回は、前回の記事で触れた東日本大震災の体験談について。
幸いにも、僕は避難生活をする必要はなかったのですが、何かしら参考になれば・・・
大きな地震の際には事前に地鳴りが聞こえたりするものですが、3.11の際に聞こえたものは、かつて感じたことのないほど大きなものでしたね。
そして揺れもまた、体験したことのないほどのものでした。
僕はその時自宅にいたのですが、とりあえず膝立ち状態で、落ちたら困るものを手で押さえていたと記憶しています。
揺れの強さもさることながら、その時間も長く、不安になっていました。
揺れ始めてから2分ほど経った頃でしょうか。
揺れ方が変わり、より強い揺れを感じました。
「あー、これは死んだかも。」
頭に浮かんだのは、もはや諦めでしたね。
そんなわけでとりあえず布団に潜り込み、寝ることにしました。
いや避難すべきと言われるかもしれませんが、建物が崩壊するレベルなら外に出ても同様に危険だと思いましたし、それならせめて苦しまずに済むようにしたいと思ったんですね。
建物が無事な場合は何も問題ないですし、下手に外に出てパニックに巻き込まれたりする危険もありますから。
そもそもまともに立って移動することも難しかったので、その状態で出来ることはそうありませんし。
そんなわけで、こまごまとした物が床に衝突する音などが気になりつつも、布団の中で目を瞑り、ジッとしていました。
やがて振動音も消え、揺れも収まった気がしました。(気がする、としたのは、揺れているような感覚がしばらく残っていたからです。)
とりあえず部屋を片付けようかと思ったものの、大きな余震が来たらまた片付けなければなりませんし、状況を確認しようにも地震直後では情報が錯綜してそうだと考え、というかなんかもう色々億劫になってしまって、一眠りしてから行動しようとそのまま眠りにつきました。
今思い返すと、ただの現実逃避でしかないわけですが・・・
目が覚めると外は暗く、照明のスイッチを入れても反応しません。
給水ポンプが動かない以上水道も使えませんし、ガスも停止していました。
手動発電式の懐中電灯があったことを思い出し、外から差し込む非常灯の明かりを頼りに探し出しました。
携帯電話(当時はFOMA)で情報を確認し、広域で被害があったことを知りました。
その後実家から電話があり、安否を伝えました。
回線が混雑していたため、何度かけても繋がらなかったらしく、大層心配していた模様。
それについては理解はできるのですが、次はいつ繋がるか分からないという理由から長電話になってしまったのが正直困りましたね。
と言うのも唯一情報が取得できるツールが携帯しかなく、いつ電気が復旧するか分からない状態ですので、バッテリーの残量が気になっていたんですよね。
当時の携帯は液晶画面の性能もあり、ネットを見るのに結構な電力を消費していたんです。
それでまあ、そのことを伝えて早めに切り上げるようにお願いしたのですが、別な人と替わるから~などと引っ張られて、かなりバッテリーが減ってしまいした。
その後もパラパラと知人等から連絡があったりしたのですが、事情を話して連絡を回してもらえるようにお願いしたりしましたね。
さて、ある程度状況がつかめてきたところで、気になるのは食糧事情。
水も食べ物もあまり備蓄が無く、また冷蔵庫の中身も電気が止まっていることからどれほど保つか分かりません。
幸い気温が低く、ある程度大丈夫だったのは助かりました。
次の問題は排泄に関してですね。
水道が使えない以上、流すこともできません。
なるべくトイレを使用しないためにあまり飲み食いしない、そのためにはエネルギーを使わない、つまり寝てるのが一番だったわけですが、それまで散々寝ていたせいで眠れません。
横にはなってみたものの、そのうち腹の虫は鳴き出すし、意識したせいかトイレが近くなるしでちょっと困りましたね。
それでも明け方近くになると次第にまどろみ、気付けばすっかり日が昇っていました。
この時は、水が流れる音に反応して目が覚めたんですよね。
無論電気も復旧していましたし、とりあえずは一安心。
ガスはまだ使えなかったものの、復旧も遠くないだろうと楽観していました。
その後、状況確認と物資調達のために、地震後初めて外に出ました。
傾いている電柱や歪んでいるアスファルトなどもありましたが、概ね普段通りの景色がありました。
しかし物資調達に関しては、当然のように普段通りにはいきませんでしたね。
事前にネットで調べて、ほとんどが休店していることは確認していたのですが、それでも何かないかと思って探してみたところ、完全に無駄足でした。
お米は多少あり、炊飯器も使えるのですが、残っている食料の大部分が調理を要するものでした。
簡単に食べられるものかカセットコンロなどが入手できれば良かったんですが・・・
その後ニュースを見たり、ネット掲示板で情報を探しているうちに、ガスの復旧が簡単にいかないことを知りました。
僕の住んでいた部屋のガス設備は都市ガスだったのですが、津波の影響で配管に水が入ったため、かなりの規模で交換する必要があったんです。
食べ物のことは勿論ですが、給湯も不可能だったことはかなりの問題でした。
3月とはいえ気温は低く、外では雪が降っているような状況だったので・・・
とりあえずコーヒーメーカーでお湯を沸かし、前日から湯船に張っておいた水と混ぜて嵩増して髪を洗ったり、電子レンジで蒸しタオルを作って体を拭いたりしていましたね。(水道から直接出る水よりも、外気にさらしておいた方が温くなっているので。)
そんな中、友人が転がり込んできました。
友人は原付で通勤していたのですが、給油が難しい状況だったために職場に近い僕の部屋から通いたいということ、外食やコンビニ弁当で生活していたため食事がままならなくなったことが理由でした。
と言っても調理できる環境では無く、調達できるものも限られていたため、二人して辛うじて入手できたチョコレートやスナック菓子で飢えを凌いでいましたね。
電子レンジとオーブントースターを駆使して作ったグラタンが、唯一食事らしい食事でした。
地震後1週間くらい経った頃でしょうか。
近所のセイユーに物資が搬入され、商品が陳列されるという情報が入りました。
開店は午前10時からだったのですが、必需品を入手すべく早朝から並びました。
ここでカセットコンロを入手してからは、格段に生活が楽になりましたね。
少し話は変わるのですが、僕は納豆が好物で、セイユーの自社ブランドの小粒納豆が安くて好みの味だったので、普段からよく買っていたんです。
営業が再開した時も、あわよくば購入しようと思っていたのですが、残念ながら置いてありませんでした。
その代わり、普段だとより高いメーカー製品が値下げされ、自社ブランド同様の値段で販売されていたんですよね。
納豆以外でも、そういった商品が目に付きました。
通常の2~3倍の値段で販売するお店や、普段なら店頭に並ぶこともないであろう程に黒ずんだバナナを高値で販売するお店を目にするなんてことが多かった中、この配慮には驚きました。
精神的にも弱っていたこともあり、ひどく感動した覚えがあります。
そんなわけで流通が正常化した後も、極力セイユーを利用するようになりましたね。
更に話がずれますが、ケーキの訪問販売が来たことがあります。
甘いものがさほど得意でなかったことや、収入が不安定な中で余計な出費は抑えたかったこともあり、
「すみません。結構です。」
と断ったところ、
「ですよね~。」
という反応が返ってきました。
状況的に当然だと考えていたのか、それともこちらがケーキを買いそうもない相手だと感じ取ったのでしょうか?
はたまた他の理由からでしょうか?
今でも思い出すたびに気になっています。
大分生活が落ち着いた後、被災地域に住んでいる知人たちとの連絡がぽつぽつとれるようになりました。
泉区の友人B宅はプロパンガスのため給湯に問題が無く、お風呂を借りられることになりました。
市内の温泉・銭湯などは自宅から遠く、営業日が不確定なうえ、1時間以上の待ち時間がざらだったことから、満足に清浄できなかったので喜んで招きにあずかりました。
電車の復旧が終わっておらず、臨時運行していた代行バスで泉区まで行ったのですが、そこでの被害は自宅周辺よりも大きなものでした。
泉区は僕が住んでいた仙台駅周辺からみて北部の山林の多い地域なのですが、どうやら仙台市中心部と地層の成分が違うことが原因で、揺れによる被害がより大きかったようです。
ガラスの割れた建物や大きく隆起したアスファルトが目に付きました。
訪れた友人Bの勤め先の建物の一面はガラス張りだったのですが、それが砕けて怪我人も出ていたとのことです。
福島に住んでいる友人Cとも連絡が取れ、遊びに来ることになりました。
友人C宅は福島原発事故による避難区域からは外れていたため、特に避難をする必要は無かったようです。
インフラに関しては電気ガスは問題なかったものの、水道が停止していたようです。
給水車による水の配給を受けていたため、僕同様お風呂などには困っていたようです。
洗い物を減らすため、お皿にラップを敷いて使用していると聞いた時は、なるほどと感心しました。
ちなみにその日、震災後1カ月弱頃だったと思いますが、ちょうど僕の部屋のガスの復旧が完了したんですよね。
友人C含めまだ復旧が完了していない地区の知人が集まって、代わる代わる入浴していきました。
その後は流通もある程度正常化し、生活も以前とさほど変わり無くなり、転がり込んでいた友人も自宅に戻りました。
ちなみに僕はその後、大きな津波被害のあった岩手県陸前高田市の復興事業に関わったりもしました。
プレハブの建物が多かったのですが、最低限の品物は入手できたので、その辺に神経を割くことは無かったものの、住宅状況はあまり良くはありませんでしたね
週末に仙台に戻る度、使用できる道路が変わっていたりして苦労しました。
そんなわけである程度生活も落ち着いてきたわけですが、以前と違って小さな揺れにも過敏に反応するようになりました。
僕は子供の頃に青森に住んでいたのですが、2年間で震源地が全て異なる震度5(強弱表示が無かった頃です)の地震が4回も来るような地域で、そのうち1度は一泊入院の当日(手術1時間後)だったりするなど、わりと地震体験が多く、それなりに慣れていると思っていたのですが・・・
震災後は生活が不安定な中で日に何度も揺れが起き、再び停電が起こったりもしていたせいか、すっかり地震に対して過敏になってしまいました。
今でも微かに地鳴りが聞こえるだけで体が固まります。
そんなわけで、気休めの意味も込めて備えはするようになりました。
・まずは水。
2~3日は持つだけの飲料水は確保しておくべきだと思います。
僕の場合は実際そこまで必要なかったのですが、安心感が違います。
・懐中電灯
分かりやすい位置に置いておくとよいかと思います。
・携帯・スマホ用電池式充電器
加えて、無暗矢鱈と、特に被災地域の人に連絡はしないことをお勧めします。
・カセットコンロ
有る無しでは随分と違います。地域や季節にもよるとは思いますが。
・ラップ
様々な用途があります。防水にも使えますし、使い方によっては防寒も。
あとはまあ、丈夫な靴や衣服という人もいますね。
職場の上司は発電機を所持していたということもあり、水と発電用のガソリンさえ有ればいいとも言っていました。
食料に関しては、ぜいたくを言わなければわりと何とかなるかと思います。
ある程度の備蓄があった方が良いのは勿論なのですが。
このところ震度6以上の地震が国内で頻発しているので、普段からせめて心構えだけでもしっかりしておきたいものです。